企画展「中上良子 陶磁器デザイナー・エマイユ作家として」
はじめに
戦後復興の只中にあった昭和20~30年代、美濃の主産業である陶磁器生産の現場で女性のデザイナーが活躍したことをご存知だろうか。岐阜県高山出身の中上良子(なかがみよしこ・1932-2005)は、学生時代に学んだ絵の才能を活かし、多治見の太洋陶園で絵付けの仕事に従事する。そこで、窯業指導のために各地を訪れていた陶磁器デザイナーの日根野作三と出会う。中上の才能にいち早く気づいた日根野は、その後、折に触れて中上の活躍の機会を見出し、中上は陶磁器デザイナーとして、エマイユ(七宝)作家として活動の幅を広げ、評価を得ていくことになる。日根野を起点に美濃で巻き起こったクラフトデザインのムーブメントにも加わり、様々な作り手と関わりながら、生涯、制作に生きた中上良子の世界を展観する。
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中上良子
『美濃グルッペ泥人』(1974)より転載 -
エマイユ額
中上良子
中上良子の生い立ち
中上良子は、岐阜県の高山で八人姉弟の五女として生まれた。幼少期は、岐阜県職員の父の仕事の都合で父・母・弟二人と中国の大連へと移り住んだ。異国での暮らしは戦況とともに悪化し、終戦直前の昭和19年(1944)頃、一家で帰国するも、翌年、父が急逝する。親戚を頼り、一時は岐阜市で暮らすこともあったそうだが、中上は岐阜県立高山高等学校を卒業している。のちに、陶磁器デザイナー、エマイユ作家として大成する中上だが、デザインをどこかで学んだ記録はない。一方、高山時代、画家 徳永富士子から絵を学んだというから、自身の感性をここで育んだことがうかがえる。
高校卒業後、姉を頼り多治見で職を探す。高校の教師が太洋陶園の安藤秀二に「絵が上手で、多治見で働きたい人がいる」と推薦したことで、中上は陶磁器の世界に飛び込むこととなった。
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幼少期に家族と
前列左が良子、左端に父、左から3人目に母、ほか姉4人と弟2人が写る -
大連時代
康徳11年1月2日(昭和19年)
父、母、弟2人と -
高山時代
カンバスに向かう良子 -
中上良子略年譜
Ⅰ. 陶磁器デザイナーとして
日根野作三との出会い
昭和26年(1951)、多治見の太洋陶園に入社した中上は絵付けの仕事に携わった。そこで、陶磁器デザイナー日根野作三(1907-84)と出会う。日根野は、いち早くその才能に気づき「芸術のセンスの大元を養うのは西洋画」であるとして、中上の感性のルーツを高山時代に見出した。
この頃日根野は、昭和22年(1947)に設立された日本陶磁振興会に参加したことを機に、全国の陶磁器産地に窯業指導に訪れていた。機械化・量産化が進む時代の一端で、日根野は手仕事による陶磁器生産の重要性を説く。日根野によって各地にもたらされたクラフトデザインの精神は、美濃の作り手たちにも共感を得る。太洋陶園の安藤秀二や、のちに中上が陶磁器デザイナーとして活躍する知山陶苑の安藤知山ら、日根野に影響を受けた作り手に囲まれながら、中上は創作の世界を広げていく。
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日根野作三
昭和28年(1953)多治見にて
画像提供:三重県立美術館 -
上絵皿
日本陶磁振興会
(絵:日根野作三)
昭和24年(1949)頃
土岐市美濃陶磁歴史館 -
赤楽茶碗
日根野作三
土岐市美濃陶磁歴史館
太洋陶園でのしごと
太洋陶園は上絵付を専門に行う製陶所で、漆蒔と呼ばれる技法を用いる製品を得意とした。一方で、G ペンを用いて文様を描く「ペン描き」と呼ばれる上絵技法が日根野によってもたらされ、洋皿に和風の絵を施す内地向けの製品もつくるようになる。
ここでの中上は、従来の漆蒔製品の絵付けの仕事に加え、同社にとっては新技術であるペン描きの絵付けにも携わった。日根野によるペン描きのデザイン案を自身でアレンジして製品サンプルをつくっていったという。画一的な文様を描く職人の世界にまだ染まりきらない中上の描く線を、日根野は評価し伸ばそうとした。中上の描く自由な線は、この頃日根野に招かれ美濃での窯業指導に加わった陶磁器デザイナー 澤田米三(痴陶人)にも評価されたという。
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上絵皿
太洋陶園(絵:中上良子)
昭和26-30年(1951-55)
多治見市美濃焼ミュージアム
知山陶苑でのしごと
昭和30年(1955)、中上は日根野を介して土岐市下石町にある知山陶苑に入社した。この頃の知山陶苑は、陶磁器デザイナーとして活動していた澤田米三が所属し、知山、日根野、澤田の三者の連携によって、業界を驚かせるようなデザインの製品を次々と生み出す企業だった。そこで中上が主に手掛けたのは、銅版転写の文様デザインである。銅版転写は、文様を彫り込んだ銅版を刷って絵具を版から紙に写し、それを器面に写すという絵付け技法で、量産に適していた。それまで、職人の手仕事による絵付けを主体としていた同社にとって、銅版転写の導入は新たな展開だったと考えられる。知山陶苑の銅版デザインのほとんどは中上が担い、やがてそれが同社の展開する製品の中核となっていった。ここでの仕事が中上を陶磁器デザイナーにし、仕事の幅を広げていく足掛かりとなっていった。
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知山陶苑の仕事場
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銅版茶器セット
知山陶苑(銅版:中上良子)
昭和30-40年代(1955-70)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
銅版モーニングセット
知山陶苑(銅版:中上良子)
昭和30-40年代(1955-70) -
銅版転写紙
中上良子
昭和30-40年代(1955-75)
デザインの評価とフリーデザイナーとして
中上が知山陶苑で手掛けた銅版デザインは、やがて評価を得るようになる。昭和36年(1961)には、製品図案が第4回輸出陶磁器デザインコンクールで中小企業庁長官賞を受賞。同41年には、中上デザインの銅版転写を施したコーヒー碗皿がグッドデザイン賞を受賞した。輸出陶磁器デザインコンクールには、知山陶苑から継続して出品を行い、中上ら所属デザイナーが受賞や入選を繰り返した。
また、中上は知山陶苑の仕事のかたわら、日根野を介して個人で仕事を請け負うようにもなる。昭和33年(1958)には、新設された土岐市陶磁器試験場で日根野とともに講師に任命され30年以上務めた。同40年頃には伊奈製陶(常滑)や香蘭社の製品デザインに関わり、香蘭社では知山陶苑で手掛けたような細やかな銅版デザインを提供した。
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銅版皿
知山陶苑(銅版:中上良子)
昭和36年(1961)頃 -
銅版コーヒー碗皿
知山陶苑(銅版:中上良子)
昭和40年(1960) -
銅版紅茶碗皿
香蘭社(銅版:中上良子)
昭和40年代(1965- )
未発表図集『魚の文様』
昭和34年(1959)、中上は54 枚にもわたり様々な魚を描いた。抽象・具象問わず、鉛筆やクレヨン、水彩、色紙など様々な表現で中上の世界が展開されている。図集のように束ねられたそれには、日根野による解説と評が付属する。それによると、この図集は日根野の依頼で『魚の文様』をテーマに中上が描いたものだという。出版に向けて昭和48年(1973)に日根野が編集した跡が残るが、未発表のまま終わった。誰の眼にも触れることなく眠ることとなった『魚の文様』だが、進んで表舞台に立つことをしなかった中上に代わり、日根野は中上の才能を世に示したかったのだろう。ここには中上の多彩な発想と表現が凝縮され、日根野の批評からは、日根野が中上の作品の何に注目し惹かれたのかが読み取れる。この図集の制作をきっかけにしてなのか、中上は生涯、魚をモチーフに作品をつくり続けた。
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『魚の文様』原図・編集原稿
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スケッチ
中上良子
昭和30年代前半頃
(1955-60) -
『魚の文様』(部分)
中上良子
昭和34年(1959) -
『魚の文様』(部分)
中上良子
昭和34年(1959)
Ⅱ. エマイユとの出会い
安藤七宝店でのしごと
昭和37年(1962)頃、中上は日根野を介して名古屋の安藤七宝店にデザイン提供を行うようになる。日根野と安藤七宝店とのつながりは、日根野のデザイン帳を見る限りでは、少なくとも昭和28年(1953)には始まっている。昭和30年頃には、安藤七宝店が主として手掛けてきた伝統的な本七宝(有線七宝)と並行して、銀線を配しない比較的安価な「レリーフ七宝」と呼ばれる製品も展開されていく。レリーフ七宝では、銀線の代わりに銅板を裏から盛り上げることでモチーフの輪郭が示された。また、この頃同社では、銅板上を銀線や凹凸で区切ることなく釉の配色のみで絵画的にモチーフを表現する「エマイユ」の製品開発も行っていた。中上は、本七宝、エマイユどちらのデザインも手掛けたが、ここでエマイユの色彩に魅せられたことで日根野に技法を学び自身の制作へと歩みを進めていく。
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レリーフ七宝
安藤七宝店
昭和30年(1955)頃 -
七宝花瓶
安藤七宝店
(デザイン:中上良子)
昭和39年(1964) -
七宝花瓶
安藤七宝店
(デザイン:中上良子)
昭和42年(1967) -
七宝デザイン図案
中上良子
昭和42年(1967)
彩と光 エマイユ作家として
昭和30年代後半頃から平成8年(1996)頃まで中上はエマイユの制作を行った。その間、個展を継続的に開催し、昭和46年(1971)頃には自宅でエマイユ教室を主宰、生徒とともに「エマイユ・シューレ」というグループを結成した。そして、昭和55年(1980)、フランスで開催された第5 回国際七宝美術ビエンナーレに初出品し、リモージュ市工芸会賞を受賞する。同展には25ヶ国650名が約800点を出品。このうち、150名・約200点が日本からの出品で、中上を含む3名が入賞したという。
中上のエマイユには、透明釉の下から覗く銅板の素地に細かな文様が彫り込まれ、銅版転写で培った技術が遺憾なく発揮されている。さらには、銅版転写では表現できなかった鮮やかな色の世界が中上の表現に加わった。「彩と光」を永遠のテーマとし、四季折々の光の変化や草花のきらめきを追求し続けた。
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工房風景
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エマイユ壁掛け
中上良子
昭和44年(1969)頃 -
エマイユ小皿
中上良子
土岐市美濃陶磁歴史館
(二宮コレクション) -
エマイユ額
中上良子
昭和39年(1964) -
エマイユ額
中上良子 -
エマイユ蓋物・小物入れ
中上良子 -
エマイユ小品
中上良子 -
エマイユ小品
中上良子 -
エマイユ未成品
中上良子 -
エマイユ制作道具・材料
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フランスリモージュの国際七宝美術展会場で受賞作と
昭和55年(1980) -
国際七宝美術展出品者たちとの欧州旅行
昭和55年(1980)
Ⅲ. 美濃のクラフト運動と中上良子
昭和30年代、日根野が美濃を訪れるようになって10年ほど経つと、日根野のクラフトデザインによるものづくりの思想に影響を受けた作り手たちがグループを組んで活動するようになる。中上はこの動きにも加わり、昭和36年(1961)頃には「みの工芸」、同45年(1970)頃には「美濃グルッペ泥人」の一員となる。みの工芸の活動は長くは続かなかったようだが、三重県四日市の瀬栄陶器が主導するセイエークラフトというグループと連携し、京都の走泥社ともつながった。一方、美濃グルッペ泥人は昭和60年(1985)頃まで13人のメンバーで活動した。日根野が顧問、安藤光一が会長を務め、ディレクターとして安江賀明が作品販売を担った。日根野が次代のクラフトマンと認めたこのメンバーの中でも、中上は独自のエマイユの世界をひらいていくのだった。
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『美濃グルッペ泥人』
美濃グルッペ泥人
昭和49年(1974)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
彩雲(皮剥手)茶碗
中島正雄(1921-2014)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
天目酒器
加藤仁(1926-2004)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
佛
安藤光一(1934-2022) -
大鉢
伊藤慶二(1935- )
昭和43年(1968)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
泥人メンバーと加藤静男宅のバラ園で
左から伊藤慶二、中上良子、日根野作三、熊沢輝雄
参考文献・凡例
【参考文献】
- 株式会社安藤七宝店 1961 『七宝焼』
- 岐阜県陶磁器上絵加工工業協同組合連合会 1984 『美濃上絵陶業30 年史誌』
- (財)岐阜県陶磁資料館 2009 『日根野作三デザイン帳』DVD
- (財)日本陶磁器意匠センター 1973 『陶磁器デザインコンペティション1 輸出陶磁器デザインコンクール 第1 回-第16 回』
- 七宝芸術社 1980 『七宝芸術』第13 巻11 号
- 多治見市 1987 『多治見市史 通史編 下』
- 泥人事務局 1974 『美濃グルッペ泥人』
- 林俊光 1977 『七宝の文様』 マリア書房
- 日根野作三 1969 『20cy 後半の日本陶磁器クラフトデザインの記録』 光村推古書院
- 日根野作三 1975 『日根野作三「楽」五拾碗』 土羊会
- 松岡未紗編 2019 「徳永富士子略年譜」 徳永富士子展実行委員会
- 瑞浪市陶磁資料館 2010 『金中製陶所略史』
- 公益財団法人日本デザイン振興会 「1966 年度GOOD DESIGN AWARD」 GOOD DESIGN AWARD 2022.4.1 https://www.g-mark.org/award/describe/26713(参照2022.6.24)
- 武蔵野美術大学 「版画表現」 造形ファイル 2009.6.20 http://zokeifile.musabi.ac.jp/categories/?cat=printmaking-representation(参照2022.6.26)
【凡例】
- このページは、土岐市美濃陶磁歴史館企画展「中上良子 陶磁器デザイナー・エマイユ作家として」のバーチャル展覧会である。
- 会期:2022年8月13日~11月13日
- 前期(~9/28)と後期(9/29~)で展示作品の一部の入れ替えを行った。
- 各作品写真のキャプションは、作品名、制作者・製造、制作年代、所蔵者の順に明記した。ただし、所蔵者は公的機関及び団体に限り明示した。
- 掲載資料は必ずしも展示の順序と一致しない。また、展示しているが掲載しない資料がある。
- 解説文は当館学芸員の鍋内愛美が執筆した。
- 掲載写真の無断転載を禁ずる。