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企画展『妻木の熊谷吉兵衛 美濃の大陶商「西浦屋」を支えた人』

 美濃国土岐郡妻木村(現土岐市妻木町)に生まれ、 幕末から明治への時代の転換期に多治見の大陶商「西浦屋」の江戸店支配人として活躍した商人熊谷吉兵衛の知られざる生涯をたどる。 会期:2022年11月19日~2023年2月26日

序 熊谷吉兵衛という人

 熊谷吉兵衛(1814-1890)は、文化11 年に妻木村の神宮地区で窯焼きを営む家に生まれ、天保元年(1830)に16歳で多治見の陶器商「西浦屋」に奉公に出る。この頃、店主西浦円治(二代)は美濃焼の仲買に乗り出すと同時に、天保6年(1835)には美濃焼の販売を取りまとめる尾張藩の出先機関「美濃焼物取締所」の取締役に就任している。若き吉兵衛は主家の動向を目の当たりにしながら商人として成長し、やがて次代当主となる三代円治の腹心として活躍し始める。

 一方、吉兵衛は商売の傍ら、「石門心学」という学問に出会い、西浦屋江戸店支配人を務めながらも学問の道を極めていく。明治初年、西浦屋を隠居して東洲と改名した吉兵衛は、明治23年に76歳で没するまで東京にあった石門心学の講舎「参前舎」舎主として、石門心学の普及に心血を注いだ。

  • 書「忠孝仁」

    山岡鉄舟/熊谷東洲(吉兵衛)
    明治時代初期(19世紀)
  • 伝熊谷吉兵衛肖像写真

    明治時代初期(19世紀)

第1章 吉兵衛が生まれた頃

美濃焼流通と西浦円治

 19世紀初頭、美濃では磁器生産が開始され、江戸での需要の大きさから生産量が急増する。同時期に流通面でも大きな動きがあり、ここに深く関わってくるのが西浦屋の当主二代西浦円治である。

 享和3年(1803)、美濃では尾張藩の「蔵元制度」の傘下に入り、美濃焼が瀬戸焼といっしょに流通するようになる。美濃側にとって、尾張藩を介しての江戸市場参入が大きな目的だったが、制度が動き始めてみると様々な不都合が露呈したことから、天保3~4年(1832~33)に尾張藩傘下からはずれ、美濃焼の江戸市場での独自販売を目論む動き「水揚会所設置運動」が起る。この運動を主導したのが、当時多治見村の庄屋だった二代円治だった。この運動は失敗に終わるが、天保6年(1835)に多治見村に尾張藩の出先機関として「美濃焼物取締所」が設置され、美濃焼が全て取締所を介して出荷される仕組みが整う。そして、初代美濃焼物取締役に二代円治が就任し、美濃焼の生産販売を統括する立場となった。

  • 初期の新製焼

    市之倉中2号窯
    多治見市教育委員会
  • 西浦屋で取引記録のある美濃焼

    市之倉中2号窯・洞窯・高田大ザヤ窯
    多治見市教育委員会
  • 美濃焼流通の変遷(1)

  • 美濃焼流通の変遷(2)

  • 美濃焼取締所設置

  • 美濃焼物取締所開設後の三都への瀬戸焼美濃焼流通のしくみ

複雑な美濃焼産地の姿

  • 複雑な美濃焼産地の姿(1)

  • 複雑な美濃焼産地の姿(2)仲買人の動き

  • 複雑な美濃焼産地の姿(3)窯元の動き

妻木氏領の美濃焼生産

 上郷妻木氏と下郷妻木氏に支配された江戸時代後期の妻木村は磁器生産が盛んで、安政6年(1859)の窯株調べにおいて上郷下郷合わせて12株と記録され、そのうち10株が下郷にあった。

 江戸後期、全国的に財政難で苦慮する領主が多かったが、妻木も例外ではなく、財政再建の頼みとして磁器生産に期待がかかった。上郷妻木氏の領地経営を預かる陣屋(代官所)日東千左衛門は嘉永5年(1852)、幕府の番町御薬園から御用焼を受注することに成功する。このほか妻木では、水戸藩を介して江戸で製品を売り捌くルートを開拓するなど、西浦円治を介さない美濃焼販売で利益をあげる方法が試みられていた。

 熊谷吉兵衛の生家は妻木村の下郷妻木氏の領内にあり、父久米右衛門は名主を務め、地域の窯業関係者の取りまとめ役も担っていた。吉兵衛が生まれたのは、ちょうど美濃で磁器生産が始まり、江戸での需要により美濃焼の生産量が増加し、活況を呈し始めた頃だった。吉兵衛の父も共同の登窯で磁器生産を行い、天保12年(1841)には下郷妻木氏の地頭所から窯株の許可を受けている。

  • 染付富士形銚子

    幕末(19世紀中頃)
    妻木八幡神社
  • 妻木・神宮窯採集品

    江戸後期~明治初期(19世紀)
    土岐市美濃陶磁歴史館
  • 窯株許可書

    天保12年(1841)

第2章 西浦屋と吉兵衛

西浦屋へ奉公した頃

 二代円治は文政7年(1824)頃から美濃焼の仲買を開始し、大阪、江戸の大市場への参入を目論んでいた。吉兵衛が西浦屋へ奉公したのは、西浦屋が美濃焼の仲買を本格化させた頃だった。そして、二代円治が美濃焼物取締役に就任する頃には、吉兵衛は二代円治の甥で養子の道助(後の三代円治)に付き従い、大阪や江戸を行き来して西浦屋の商売拡大に励んでいた。

  • 三代円治と吉兵衛―大利事件(1)

  • 三代円治と吉兵衛―大利事件(2)

江戸堀留店開店―吉兵衛、江戸へ

 弘化3年(1846)、西浦屋は大阪で陶磁器問屋が集まる西横堀瀬戸物町に支店を開店、翌年には日本橋堀留町に支店(江戸堀留店)を開店し、多治見本店を含めた三店舗体制を整え、西浦屋は美濃焼広域流通を一手に掌握する。そして、吉兵衛は西浦屋の要である江戸支店の命運を託され、支配人として江戸へ派遣される。

 4名の店員から始まった西浦屋江戸堀留店は吉兵衛の采配により急成長を遂げ、2年後には従来の江戸瀬戸物問屋から妬みを買って訴えられるほどになっていた。開店から20年を経た頃、取扱い商品は美濃焼に加えて、瀬戸、京、信楽、肥前にまで広がり、取引範囲も関東一円から東北の太平洋側一帯におよぶ大店へと成長し、万延元年(1860)には開港した横浜で外国向けの取引も開始している。

  • 吉兵衛、江戸へ出る

  • 妻の死と再婚

  • 安藤対馬守替地一件(1)

  • 安藤対馬守替地一件(2)

東京堀留店と二代吉兵衛

 明治4年(1871)頃、多治見で三代円治が隠居すると、側近として苦楽を共にし57歳になっていた吉兵衛も隠居、東洲と名を改める。多治見の西浦屋は四代円治が継ぎ、東京堀留店の支配人を継いだのは、吉兵衛の養子である二代吉兵衛(辰之助)だった。

 辰之助が支配人を受け継いだ後も堀留店は西浦屋支店として継続する。四代円治は、明治13年(1880)に多治見で販売会社「濃陶社」を設立、翌年に東京堀留店も会社組織とする。社長は五代円治、支配人二代吉兵衛で、資本金14,500円のうち2,000円を二代吉兵衛が負担している。

 さらに2年後の明治16年、堀留店は西浦家から二代吉兵衛に経営権が譲渡され、西浦家は堀留店の株を所持しつつも、東京での陶磁器販売業からは事実上撤退する。東京では隠居後の吉兵衛(東洲)が深川和倉に居を移し、二代吉兵衛を支えていた。

  • 幕末から明治時代初期の西浦屋の取引地域

  • 東京堀留店譲渡書類

    明治16年(1883)

第3章 石門心学と吉兵衛

石門心学との出会い

 商人が賤しい存在とされた江戸時代、「石門心学」の開祖石田梅岩(1685~1744)は商人の利益を武士の俸禄と同じく正当なものと認め、その存在を肯定したことから、商人から支持される学問となった。

 吉兵衛は、西浦屋の用務で江戸や大阪を行き来する中で石門心学に出会ったとみられ、江戸移住後は心学講舎「参前舎」の活動にのめりこむ。西浦屋江戸店支配人を務めながらも、安政2年(1855)には、参前舎主で師匠だった中村徳水に付き従い、三カ月弱にもおよぶ山形県庄内地方への心学普及の旅に出ており、そのときの記録が現在も山形県鶴岡市に残されている。西浦屋隠居後の明治9年(1876)、吉兵衛は参加前舎八代舎主に就任、著書の出版や講演などに励み、心学普及に心血を注ぐ。

  • 石門心学教本『孝の道』版木

    幕末~明治時代初期(19世紀)
  • 石門心学教本『孝の道』

    幕末~明治時代初期(19世紀)
  • 中村徳水肖像

    江戸時代後期(19世紀)
    鶴岡市郷土資料館
  • 「心学廻村日記」

    荒井和水著
    安政2年(1855)
    鶴岡市郷土資料館

還暦記念の里帰り

 明治7年(1874)、還暦を迎えた記念に吉兵衛は妻木へ里帰りする。そのとき、妻木に心学講舎「会友舎」を設立、近隣住民から広く入門を募り、当初名簿に名前を連ねたのは160人を越えた。

 会友舎では一口3円で積金を募り、集めた会費を東京堀留店で運用し、活動資金や利子を捻出する仕組みが整えられた。会友舎の運営は熊谷家を継いでいた妹婿弥吉に託され、東京での資金運用は堀留店を引き継いだ二代吉兵衛が担った。妻木から東京へ美濃焼を発送、堀留店での売上金も会友舎の運営資金とされた。こうして、東京にいる吉兵衛と妻木の熊谷家は、美濃焼の販売や石門心学を通じ強い絆を持ち続けた。

  • 『遠慮講規則並びに姓名簿』

    熊谷東洲
    明治7年(1874)
  • 会友舎陶磁器見本箱

    明治時代(19世紀)
  • 錦絵(熊谷東洲詞)

    明治7年(1874)
  • 『時辰儀説』

    熊谷東洲著
    明治10年

第4章 明治時代の熊谷家と西浦家

熊谷家の製陶

 明治時代に入ってからの熊谷家の製陶業は、実質、弥吉の娘婿の善兵衛(九代弥吉)が担っていたとみられる。善兵衛は絵付けを得意とし、「柏樹亭積峯」の号で作品を残している。窯名「一山」の裏印を施し、青磁や染付磁器の蓋付碗、湯呑、小皿などを制作、文様は非常に多彩だった。現在、素焼きに絵付けを施した状態の未製品が残り、そこからは善兵衛の絵付け技術の高さがうかがえる。

 明治20年代後半には熊谷家は、善兵衛から息子(十代弥吉)へと代替わりし、製品も輸出用の白磁珈琲碗皿へと変化している。大正時代になると、陶器商へ転身をはかる。また、明治時代から大正時代にかけての熊谷家の分家では、青磁を得意とした熊谷鉄蔵や珈琲碗皿の貿易で事業を拡大させた中島玉吉が知られる。

 明治23年(1890)、吉兵衛は東京において76歳の生涯を終える。浅草の菩提寺に15年程前まであった墓の台座には「西浦屋」と刻まれ、吉兵衛が生涯「西浦屋の吉兵衛」として生きたことを物語っている。

  • 熊谷家の製品 染付磁器

    明治時代前半(19世紀)
  • 熊谷家の製品 染付磁器

    明治時代前半(19世紀)
  • 熊谷家の製品 青磁

    明治時代前半(19世紀)
  • 熊谷家の製品 白磁珈琲碗皿

    明治時代後半(19~20世紀)
  • 第3回内国勧業博覧会賞状

    明治23年(1890)
    熊谷弥吉(善兵衛)宛
  • 熊谷家の製陶道具

    明治時代(19~20世紀)
  • 梅渓図

    森琴石
    明治40年(1907)

明治時代の西浦家

 東京堀留店を手放した四代西浦円治は、業態を陶磁器製造と貿易へと変化させていく。四代円治は、明治13年(1880)に販売会社「濃陶社」を設立、輸出向けの染付磁器の製造を市之倉の名工加藤五輔らに発注、明治20年(1887)には自宅前に上絵付工場を建設し、自家での製造に着手する。

 明治22年、前年に家督を継いだ五代円治が上絵付工場を名古屋に移転し、西浦焼生産を拡大する。明治32年(1899)には、アメリカに多治見貿易会社ボストン支店を設立、本格的な海外進出へと大きな一歩を踏み出した。この頃、多治見の尾張坂に築かれた登窯で、西浦焼の代名詞ともいえる「釉下彩」の製品が産み出されている。

 明治末年のボストン支店閉鎖の後、西浦焼の製造および貿易事業は廃業に至る。

  • 染付菜花文花瓶

    明治時代前半(19世紀)
    多治見市教育委員会
  • 西浦焼釉下彩杜若文珈琲碗皿

    明治時代後半(20世紀)
    土岐市美濃陶磁歴史館
  • 西浦焼上絵ティーセット

    明治時代中頃(19世紀)
    多治見市教育委員会
  • 西浦焼釉下彩獅子文花瓶

    明治時代後半(20世紀)
    土岐市美濃陶磁歴史館
  • 西浦焼釉下彩梅花文花瓶

    明治時代後半(20世紀)
    多治見市教育委員会

参考文献・凡例

【主要参考文献】

  • 石川謙 1938 『石門心学史の研究』岩波書店
  • 岩井美和/小木曽郁夫 2020 「西浦家のあゆみと美濃焼物~西浦家文書研究のために~」多治見市文化財保護センター研究紀要第14号
  • 多治見市 1976 『多治見市史』窯業史料編
  • 多治見市 1980 『多治見市史』通史編上
  • 多治見市教育委員会 2016 『西浦家文書目録』
  • 鶴岡市役所 1962 『鶴岡市史』上巻
  • 三宅守常 1993 「明治心学と宗教行政―附、史料「心学社中教導職拝命一覧」」『明治聖徳』復刊第10号
  • 山形万里子 2008 『藩陶器専売制と中央市場』日本経済新聞社

 

【凡例】

  • このページは、土岐市美濃陶磁歴史館企画展『妻木の熊谷吉兵衛 美濃の大陶商「西浦屋」を支えた人」のバーチャル展覧会である。
  • 会期:2022年11月19日~2023年2月26日
  • 各作品写真のキャプションは、作品名、制作者、年代、所蔵者、画像提供者の順に明記した。ただし、所蔵者は公的機関及び団体に限り明示した。
  • 掲載資料は必ずしも展示の順序と一致しない。また、展示しているが掲載しない資料がある。
  • 解説文は当館学芸員の春日美海が執筆した。
  • 掲載写真の無断転載を禁ずる。

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