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特別展「小山冨士夫と美濃 ―昭和の窯業界のあゆみとともに―」(前期・後期)

中国・定窯白磁窯址の発見や六古窯の提唱などで知られる陶磁研究者・小山冨士夫は晩年、土岐市に「花の木窯」を開き、そこで生涯を閉じる。ここでは、昭和初期に始まる小山と美濃との関わりをたどる特別展の概要を紹介する。さらに、サイドストーリーとして、陶磁器デザイナーの先駆け的存在である日根野作三と美濃との関わりをたどり、美濃焼が地場産業として地域の希望となり、さらに、その歴史や芸術性について多方面から注目が集まった時代の様子を振り返りたい。  

会期:前期2021年10月1日~12月15日/後期2021年12月9日~2022年2月13日

第1部 小山冨士夫と美濃

世界的な陶磁研究者として知られる小山冨士夫(1900~1975)は、若い頃に陶工を志した後、研究者へと転じ、現在の陶磁研究の基礎を築いた人物である。小山は昭和35(1960)年の「永仁の壺事件」以後に作陶を再開、昭和48 (1973)年に陶芸家塚本快示を介して交流のあった二宮安徳市長の招きにより土岐市へ移住し、「花の木窯」を開いた。小山は種子島の土による作品を独特の薪窯で焼成するなど、短期間ながら精力的な創作活動を行い、昭和50 (1975)年に土岐市において75歳の生涯を終える。晩年を土岐市で過ごした小山だが、美濃との関わりは長く、とくに親しかった陶芸家荒川豊蔵との交流により昭和初期からたびたび美濃を訪れてきた。本展では第1部で小山と美濃との関わりをたどりながら、小山の陶芸家としての一面を紹介する。

  • 小山冨士夫 花の木窯にて

    三枝朝四郎撮影
    1973~75年

序 小山冨士夫の生涯

小山冨士夫は明治33(1900)年に現在の岡山県倉敷市のキリスト教徒の家庭に生まれ、4歳で転居した東京で三田の聖坂基督友会(教派:クェーカー)の日曜学校へ通っている。小山の生き方や精神性には、キリスト教徒としての生い立ちが強く影響していたといえる。

小山は陶磁研究の大家として名を残すが、青年期は社会主義運動に共鳴、東京商科大学(現一橋大学)を中退してカムチャッカ行きの蟹工船に乗り込んだエピソードもある。23歳で入隊した軍隊の同僚の影響により陶磁に興味をもち、除隊後、やきものと関わる人生を歩み始める。

小山の業績で必ず語られるのは昭和16(1941)年、戦火の中国での定窯白磁窯址の発見であり、戦後は東洋陶磁研究で実績を積み重ねていく。加えて『陶磁』など専門誌の編集、無形文化財の選定など陶磁振興に寄与し、その業績は語りつくせないほど多岐にわたる。

  • 書 良寛詩「草庵雪夜」

    小山冨士夫
    1960~70年代
    土岐市美濃陶磁歴史館(二宮コレクション)
    【前期】
  • 書「温心寒眼」

    小山冨士夫
    土岐市美濃陶磁歴史館 
    【後期】
  • 種子島茶碗 銘「満月」

    小山冨士夫
    花の木窯
    1973年
    愛知県美術館(木村定三コレクション)
    【前期】
  • 種子島鉢

    小山冨士夫
    花の木窯
    1973~75年
    可児市荒川豊蔵資料館
    【後期】

Ⅰ 京都時代 ―陶工を志し、生涯の友と出会う―

陶磁研究で知られた小山だが、意外にも最初に志したのは陶工だった。大正14(1925)年、瀬戸の矢野陶々に半年間ほど弟子入りして作陶の基礎を学び、数か月の入隊期間を経て、翌年には京都山科の二代目真清水蔵六に弟子入りする。当時、蔵六を訪ねてきた北大路魯山人や荒川豊蔵とも初めて顔を合わせている。

昭和2(1927)年、小山は独立して京都蛇ヶ谷(現東山区)で作陶を始める。向かいに石黒宗麿が越してきて交流が始まり、毎日のように陶磁論を語り合い、二人は生涯の友となった。

昭和4~5年には京都や大阪で石黒と作品展を開催するものの、小山の作品は売れず、川喜田半泥子が13点を買い上げたのがほぼ唯一だったという。30歳の小山は陶工の道を断念して帰京、東洋文庫へ通って陶磁関係の書物を読み漁り、陶磁研究者としての道を歩み出す。一方の石黒は、京都において作陶の道を究めていった。

  • 白瓷黒絵双魚盆

    石黒宗麿
    1940年
    愛知県陶磁美術館(川崎音三氏寄贈)
    【前期】
  • 赤絵水指

    石黒宗麿
    1966~67年頃
    愛知県陶磁美術館(川崎音三氏寄贈)
    【後期】

Ⅱ 美濃との出会い

昭和5(1930)年、荒川豊蔵が大萱(現可児市)の山中で、筍絵の志野陶片を発見。瀬戸産と思われていた志野や織部が実は美濃産だったことが明らかとなり、美濃古窯へ注目が集まった。

翌年、小山冨士夫は大阪毎日新聞社による美濃古窯調査団に参加し、初めて美濃を訪れる。その後、昭和8(1933)年に豊蔵が大萱に築窯し、桃山陶復興を試みるようになると、小山はたびたび美濃を訪れるようになる。豊蔵との交流は終生続き、陶磁研究にまい進する日々の中、ときおり美濃を訪れ、作陶も行っていた。

また、塚本快示とは、小山の著書に感銘を受けて青白磁の研究を始めた快示が小山を訪ねたことから交流が始まり、やがて、晩年に小山が土岐市に終の棲家をかまえることへとつながっていく。

  • 元屋敷窯跡出土陶片

    元屋敷窯
    17世紀初
    重要文化財
    岐阜県立多治見工業高等学校
    【前後期】
  • 潞安茶碗

    中国
    可児市荒川豊蔵資料館
    【前後期】
  • 美濃・高田にて

    1941年
    【前後期】
  • 荒川豊蔵邸宿帳

    1942~63年頃
    可児市荒川豊蔵資料館
    【前後期】
  • 粉引梅鉢文汲み出し/絵唐津湯呑

    写真左:水月窯
    1960年代
    多治見市美濃焼ミュージアム 
    写真右:水月窯
    1960~70年代
    土岐市美濃陶磁歴史館(二宮コレクション)
    【前後期】
  • 瀬戸黒茶碗 銘「花ノ木」

    荒川豊蔵
    1935~44年
    可児市荒川豊蔵資料館
    【前後期】
  • 色絵「花」字茶碗

    小山冨士夫
    永福窯(鎌倉)
    1969年
    土岐市美濃陶磁歴史館
    【後期】
  • 柿釉盃

    小山冨士夫
    永福窯(鎌倉)
    1966~70年代
    土岐市美濃陶磁歴史館
    【前期】
  • 青白磁水指

    小山冨士夫
    快山窯
    1960~70年代
    【前後期】
  • 青白磁花瓶

    小山冨士夫
    快山窯
    1960~70年代
    【前後期】
  • 青白磁花鳥文壺

    塚本快示
    土岐市美濃陶磁歴史館
    【前期】
  • 白瓷水鳥文大皿

    塚本快示
    土岐市美濃陶磁歴史館
    【後期】

Ⅲ 美濃陶芸村と花の木窯開窯

土岐市初代市長二宮安徳(在任1955~ 75)は就任以来、産業・文化両面から様々な美濃焼振興策を打ち出していた。二宮は多くの文化人との交流を市政に生かしたが、益子の濱田庄司とはとくに親しかった。濱田や塚本快示を通じて、小山ともつながりが生れ、二宮が益子の濱田を訪ねた際には、二人揃って東京の出光美術館を訪問し小山に会っている。

二宮市政の集大成として昭和45(1970)年に「美濃陶芸村」構想が動き出す。これは、志野や織部発祥の地を「陶芸のメッカ」にという二宮の意図によるものだった。

陶芸村の第1号入村者として、小山に白羽の矢が立ち、翌春、快示らが五斗蒔の候補地を案内したところ、小山はそこに立つ濃紅色の花を枝いっぱいにつけた「ハナノキ」の大木に目を奪われ、開窯を即断する。そこは、豊蔵の陶房とも峠一つ隔てただけの場所だった。

  • 白搔落花生

    小山冨士夫
    花の木窯
    1973~75年
    岐阜県現代陶芸美術館
    【前期】
  • 種子島扁壺

    小山冨士夫
    花の木窯
    1973~75年
    岐阜県現代陶芸美術館
    【前期】
  • 種子島茶碗

    小山冨士夫
    花の木窯
    1973~75年
    土岐市美濃陶磁歴史館(二宮コレクション)
    【後期】
  • 種子島壺

    小山冨士夫
    花の木窯
    1973~75年
    土岐市美濃陶磁歴史館
    【後期】
  • 志野茶碗 銘「DEMO」

    小山冨士夫
    花の木窯
    1975年
    可児市荒川豊蔵資料館
    【前期】
  • 信楽壺

    小山冨士夫
    【後期】
  • 花の木湯呑

    花の木窯
    1973~75年
    【前後期】
  • 種子島水指

    中里隆
    花の木窯
    1973~75年
    【前期】
  • 花の木窯遠景

    1974年11月
    【前後期】
  • 花の木窯・邸宅立面図

    半澤重信
    1972年
    舘林建設株式会社
    【前期】
  • 花の木窯邸宅

    三浦悠撮影
    1973年
    岐阜県現代陶芸美術館提供
    【前後期】
  • 花の木窯 窯開きの日

    三浦悠撮影
    1973年5月
    岐阜県現代陶芸美術館提供
    【前後期】

Ⅳ 小山冨士夫を偲ぶ

小山が作品を世に出したのが晩年の十年間だったことから、陶芸は陶磁研究者の余技とみられがちだが、小山にとって陶磁研究と陶芸は分かちがたいものだった。そして、人生の最期に自身の美意識を投影した終の棲家を築き、心赴くままに作品を生み出した「花の木窯」は、小山の人生が結実した終着点だったといえる。

小山は土岐市へ居を移し作陶に励む傍ら、相変わらず全国を飛び回る多忙な日々を送っていた。昭和48(1973)年7月、小山はもう一つの念願だった東洋陶磁学会を設立、同年12月に土岐市文化会館において第一回大会が開催され、全国の陶磁研究者が集った。小山の移住により、二宮市長が思い描き小山に託した夢、「陶芸のメッカ」土岐市の姿が現実になろうとしていた。ところが、移住から3年に満たない昭和50(1975)年10月7日、小山は花の木窯で急逝する。享年75歳だった。

  • 書「客酔眠主静踊」

    藤原啓
    1975~76年
    土岐市美濃陶磁歴史館
    【前期】
  • 書「古山子を憶う詩」

    田山方南
    1975年
    土岐市美濃陶磁歴史館
    【後期】
  • 小山冨士夫葬儀しおり

    1975年
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前後期】

終 小山冨士夫が視た美濃桃山陶

安土桃山時代から江戸時代初頭の「茶の湯」の流行を受け、美濃で誕生した茶陶のことを「美濃桃山陶」と呼び、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部の種類がある。小山冨士夫は、この美濃桃山陶をどのように視ていたのだろうか。

小山は「桃山時代のやきもの」について、「その時代をよく反映して、豪壮で自由奔放なもの」が多く、「明るく、はなやかで、変化に富んでいる」と述べる。そして、この時代に造られた茶器類は、「わが国古陶磁のうちでも特にすぐれ、日本的な特質を最もよく示す」ものと評する。

その中でも特に美濃桃山陶については、器形や文様が変化に富み、「明るく、自由で、生気にあふれている」とし、この時代は美濃窯が「わが国製陶の中心」だったと述べる。

小山は、美濃焼が古く須恵器生産(7世紀)に始まることを理解しつつも、美濃については、桃山陶をとくに評価していたことがうかがえる。

引用文献:小山冨士夫 1962 「日本陶磁史概説」『日本名陶百選』日本経済新聞社

  • なぜ美濃は六古窯に入らなかったのか

    引用文献:小山冨士夫1974「日本六古窯の思い出」『別冊・歴史手帖』名著出版
    【前後期】

第2部 もう一つの戦後、美濃

小山冨士夫が美濃と関わりを持った時代は、第二次世界大戦をはさんで日本が大きく揺れ動いた激動の時代だった。美濃の主産業である窯業にももれなく戦争の影響が及ぶ中、小山とは異なるアプローチで美濃に関わった人物に陶磁器デザイナーの日根野作三(1907-84)がいる。美濃と出会った日根野は、自身が信じるクラフトデザインによって、戦後の美濃窯業界の未来を切り拓こうとする。30年にわたり美濃焼の活路を模索した日根野の活動は、小山が関わりを濃くしていった美濃のもう一つの側面を見せてくれる。

第2部では、日根野の美濃、特に土岐市での活動を軸に、昭和の美濃窯業界の様子をみていきたい。

  • 日根野作三 多治見にて

    1953年2月

序 日根野作三と美濃

日根野の美濃との関わりは、昭和22(1947)年、実業家川崎音三の出資で「日本陶磁振興会」が組織され、小山冨士夫、荒川豊蔵らとともに召集されたことに始まる。この会の趣旨は、生活物資の乏しい戦後日本における陶磁器の需要激増を受け、粗製乱造が常態化した陶磁器産業を憂い、「輸出陶磁器の刷新と国内生活必需品の純化」を志すというものだった。

戦前、山茶窯製陶所(瀬戸)や商工省陶磁器試験所(京都)、佐那具陶磁器研究所(伊賀)で意匠研究・開発に携わり、陶磁器デザイナーとして、あるいは研究者として自身の哲学を構築した日根野は、この会の趣旨に賛同し加わった。小山は瀬戸、日根野は京都、信楽、四日市を担当。間もなく荒川豊蔵から美濃の担当も引き継ぎ、指導者として各地に赴いた。

  • 呉須動物戯画鉢

    日根野作三
    佐那具陶磁器研究所
    1942年頃
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前後期】
  • 上絵皿

    日根野作三
    日本陶磁振興会
    1949年頃
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前後期】
  • 日本陶磁振興会趣旨並会則

    日本陶磁振興会
    1947年
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前後期】

Ⅰ 同志、安藤知山との出会い

日根野は担当した地域で、それぞれの製陶所が持つ特性や技術に応じた指導をするとともに製品デザイン画を何枚も描いた。このデザイン指導に通底した思想はクラフトデザインの重要性であった。日根野はクラフトを「手工を主とし近代感覚を持った現代の生活用具」と定義づけ、人の手がつくり出す陶磁器が市井の人々の生活を潤すと信じた。この思想に共鳴したのが、下石町(土岐市)で製陶所を営む安藤知山(1909-59本名知治)である。美濃窯業界の行く末に思いを巡らす広い視座を持った知山と出会い、意気投合した日根野はかつて縁のあった澤田米三(痴陶人)や澤村慈郎、加藤仁、中上良子ら才ある人々を次々と呼び寄せ、美濃での活動を充実させていった。昭和27(1952)年、日根野と知山はクラフトデザインにこだわった製品づくりと、担い手育成のため「小谷陶磁器研究所」を設立。知山と日根野を中心とした取り組みは窯業界を背負う作り手たちを着実に輩出していった。

引用文献:日根野作三 1969 『20cy後半の日本陶磁器クラフトデザインの記録』光村推古書院

  • デザイン帳

    日根野作三
    1950~61年
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前後期】
  • 安藤知山

    『知山抄』より転載
    【前後期】
  • 獅子牡丹文三段重

    安藤知山
    1930~40年代
    【前後期】
  • ベリーセットのうち盛皿・取皿

    知山陶苑
    1950年代
    土岐市美濃陶磁歴史館(左)
    【前期】
  • タタキ土瓶

    知山陶苑
    1950年代
    土岐市陶磁器試験場
    【前期】
  • 酒器セット

    知山陶苑
    1950~60年代
    【前期】
  • ベリーセットのうち盛皿・取皿

    知山陶苑
    1950年代
    土岐市美濃陶磁歴史館(左)
    【後期】
  • 銅版土瓶

    知山陶苑
    1950年代
    【後期】
  • 伊羅保釉ビアカップ

    小谷陶磁器研究所
    1951~58年
    土岐市陶磁器試験場
    【前期】
  • 陶製ドアノブ

    小谷陶磁器研究所
    1951~58年
    土岐市陶磁器試験場
    【前期】
  • 粉引卓上小品/掛け分け卓上小品

    小谷陶磁器研究所
    1951~58年
    土岐市陶磁器試験場
    左:【前期】 右:【後期】
  • 低下度釉銘々皿

    小谷陶磁器研究所
    1951~58年
    土岐市陶磁器試験場
    【後期】
  • 灰釉花器

    小谷陶磁器研究所
    1951~58年
    土岐市陶磁器試験場
    【後期】
  • 印花型/ゴム印/秤

    小谷陶磁器研究所
    1951~58年
    土岐市陶磁器試験場
    【前後期】
  • 小谷写真

    左:兎窯の前で 1952年頃
    土岐市陶磁器試験場提供
    右:小谷にて 1954年7月
    【前後期】
  • 取り壊し直前の小谷陶磁器研究所

    2004年
    小寺克彦撮影
    【前後期】

Ⅱ 広がるクラフトデザインの精神

昭和30(1955)年、町村合併を経て土岐市が成立し二宮安徳(1904-86)市長による市政が始動した。二宮は美濃焼を産業、歴史、文化といった様々な側面から見通した施策を打ち出し、その中に陶磁器試験場設立があり美濃陶芸村構想があった。

昭和33年に土岐市陶磁器試験場が完成すると場長に安藤知山が就任、日根野や加藤仁、中上良子らが講師や技術吏員となり、小谷陶磁器研究所の役割はここに移行した。デザインの力で切り拓く美濃焼の未来に心を躍らせた矢先、同34年に知山が急逝する。同志を失った日根野だが、試験場をはじめとする指導はなおも精力的に行い立ち止まることはなかった。

昭和30年代以降、日根野に影響を受けた美濃の作り手たちは「クラフトミノ」や「みの工芸」といった有志のグループを立ち上げ活動するようになり、また、指導先の製品にグッドデザイン賞など評価を受けるものが出てくる。日根野の長年にわたる地道な窯業指導は、美濃の作り手たちにクラフトデザインの思想を確かに波及させていった。

  • 銀彩皿

    土岐市陶磁器試験場
    1958年
    土岐市陶磁器試験場
    【前期】
  • ファミリー・サークルセットのうち鉢・水注

    土岐市陶磁器試験場
    1962年
    土岐市陶磁器試験場
    【後期】
  • 急須

    知山陶苑(クラフトミノ)
    1958~60年代
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前期】
  • 土瓶

    日本窯業(クラフトミノ)
    1958~60年代
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【後期】
  • 青白磁鉢

    快山窯
    1950~60年代
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前後期】
  • 焼〆鉢

    中島正雄
    1950~60年代
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前後期】
  • シルクスクリーン扁壺

    知山陶苑
    1959~60年代
    【前期】
  • 銅版カップ&ソーサー

    知山陶苑
    1965年
    【後期】
  • ストーンウェアディナーセット

    昭和製陶
    1950~60年代
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前期】
  • ストーンウェアティーセット

    光洋陶器
    1964~68年
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【後期】
  • 茶器セット

    加藤仁
    1950~60年代
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【後期】
  • エマイユ(七宝)額

    中上良子
    【前期】
  • 花生

    加藤摑也
    1950~60年代
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前期】
  • 急須

    伊藤慶二
    1960年代
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【後期】
  • 試験場写真

    左上:土岐市陶磁器試験場
    左下:第1回試作品展
    1958年
    土岐市陶磁器試験場提供
    右:土岐市陶磁器試験場にて
    【前後期】
  • 有志グループパンフレット

    左:「クラフトミノ」
    1958~59年
    右:「みの工芸」
    1961年
    多治見市美濃焼ミュージアム
    【前後期】

終 日根野と昭和の美濃窯業

昭和53(1978)年、日根野は知山陶苑で倒れる。美濃での指導を開始して30年の間に、経済成長とともに窯業界はさらなる機械化・量産化が進んだ。一方、日根野によってクラフトの思想を受け取った陶芸家が育ち、製陶所も育った。日根野の周りには、ものづくりへのエネルギーに溢れる人々が集まり、直接、間接に影響を受けたものは数多くいる。そして、現在の美濃窯業界を見渡すと、かつて日根野の言葉を理解し共感した者たちが名を馳せ、美濃焼の価値をつくり、次代に繋ごうとしている。日根野は、指導先での製品・作品にその名を残すことはなかった。だが、その思想に触れた作り手たちが、それぞれの立場で多層的にものづくりに励み、昭和の美濃窯業の歴史をつくってきた様子が浮かび上がってくる。

参考文献・凡例

【主要参考文献】

1

朝日出版事業本部文化事業部 2003 『陶の詩人 小山冨士夫の眼と技』

乾由明・林屋清三編 1992 『日本の陶磁』現代扁第2巻 中央公論社

小山冨士夫 1965 「批評家の作陶」『芸術新潮』2月号

小山冨士夫 1974 「日本のやきもの、世界のやきもの」『日本のやきもの』読売新聞社

小山冨士夫 1977 『小山冨士夫著作集(上)中国の陶磁』朝日新聞社

塚本快示 1976 「小山先生と花の木の家」陶説275

二宮安徳 1976 『市長の手帖』土岐市役所幹部会

里文編 1981 『小山冨士夫の世界』

 

2

阿部聖 1997 『痴陶人』汐文社

回顧展実行委員会 1978 『知山抄』

加藤仁 2003 『小谷陶磁器研究所』

加納志貴 2000 『下石陶磁器工業協同組合五拾年史』下石陶磁器工業協同組合

唐澤昌宏 2007 「日根野作三の足跡-瀬戸・美濃を中心として-」『日根野作三足跡展』(財)岐阜県陶磁資料館

髙満律子 2005 「小谷陶磁器研究所展」『セラ・パ』Vol.6

公益財団法人日本セラミックス協会 1962 『窯業協会誌』70796

日根野作三 1969 『20cy後半の日本陶磁器クラフトデザインの記録』光村推古書院

日根野作三 1979 『陶磁器デザイン概論』岐阜県陶磁器工業協同組合連合会

 

【凡例】

  • このページは、土岐市美濃陶磁歴史館特別展「小山冨士夫と美濃-昭和の窯業界のあゆみとともに-」のバーチャル展覧会である。

会期:(前期)2021917日~125日、(後期)2021129日~2022213

コロナウイルス感染症拡大により、前期の会期が10月1日~12月5日に変更された。

前期と後期で展示作品の一部の入れ替えを行った。

  • 各作品写真のキャプションは、作品名、制作者、窯名(生産地)、制作年代、所蔵者の順に明記した。ただし、所蔵者は公的機関及び団体に限り明示した。
  • 掲載資料は必ずしも展示の順序と一致しない。また、展示しているが掲載しない資料がある。
  • 解説文の執筆は当館学芸員が行い、第1部を春日美海、第2部を鍋内愛美が担当した。
  • 掲載写真の無断転載を禁ずる。

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