19 世紀初頭(江戸時代後期)、美濃窯で磁器生産が始まり、江戸での大きな需要により窯数や生産者数が急増していきました。美濃窯での生産の中心は天領(幕府直轄領)で、生産品の全てが「美濃焼物取締所」を通して出荷される流通機構も出来上がりました。
ただし、美濃窯内に点在した私領(旗本領など)には幕府の統制は及ばず、独自の生産と販売が行われました。私領内での陶磁器生産と販売は天領側からみると不都合に映り、しばしば軋轢も生みましたが、幕藩体制のほころびが見え始める江戸時代の終わり頃には、私領内、つまり「お殿様」の治める領地では産業政策としての窯業生産がひろがりをみせていきます。
中でも特筆すべきは、岩村藩の後ろ盾により、美濃の陶工がはるばる北海道函館の地へ渡り製造した「箱館焼」です。生産は数年しか行われませんでしたが、函館の風景やアイヌなど北海道らしい文様の描かれた染付磁器が生産されました。
このほか、岩村藩領駄知村で生産された土瓶、旗本馬場氏が販路を開拓した貧乏徳利などが私領の特産品として江戸で販売されました。また、江戸城へ御用焼を納入した旗本妻木領、代官の打ち出した政策により磁器生産が試みられた旗本林領根本村など、様々な試みがありました。
そして明治維新を迎えると、生産と販売が自由化された美濃窯では近代化が進み、旧私領の地区でも独自の動きがみられます。いち早く貿易に目を向けて珈琲碗を生産した妻木、「根本焼」という独自ブランドを産み出した根本、商人が活躍した駄知や小名田など・・・・幕末の窯業生産を下地に発展した、各地区の明治時代の動向もご紹介します。