店を盛り立て、家を守り、世のために尽くす・・・石門心学を信条として、
幕末から明治への激動の時代を生き抜いた一人の商人と彼にまつわる人々の物語
学芸員による展示解説
日 時 | 2022年12月11日(日)、2023年2月11日(土)
各日とも14:00~ |
参加費 | 無料 事前申込不要(要入館料) |
熊谷吉兵衛(1814~1890)は、文化11年、土岐郡妻木村(現土岐市妻木町)で窯焼きを営む家に生まれました。ちょうど美濃では磁器生産が始まり、江戸での需要増大により生産量が増加し活況を呈し始めた頃です。吉兵衛は16歳で多治見の陶器商「西浦屋」に奉公に出ます。この頃、店主西浦円治(2代)は美濃焼の仲買に乗り出すと同時に、天保6年(1835)に美濃焼の販売を取りまとめる尾張藩の出先機関「美濃焼物取締所」の取締役に就任しています。若き吉兵衛は主家の動向を目の当たりにしながら商人として成長し、やがて次代当主となる3代円治の腹心として活躍し始めます。弘化3~4年(1845~46)、西浦屋は大阪と江戸にそれぞれ支店を構え、多治見本店を含めた3店舗で全国へ美濃焼を流通させる販売網を構築します。吉兵衛は江戸店支配人を勤めつつ、3店舗の動向に目を配り、西浦屋が永続的に繁盛していく仕組みを整え、維新前後の混乱期も吉兵衛の采配で乗り切っていく西浦屋の様子が、現存する西浦家文書から読み取れます。
吉兵衛の商人としての心の在り方の背景には、吉兵衛が信奉した学問「石門心学」がありました。石田梅岩(1685~1744)を開祖とする石門心学は「勤勉・倹約・正直」を旨とする生き方を説く学問で、江戸時代に商人を中心に全国的にひろまりました。吉兵衛は江戸の心学講舎「参前舎」に所属して心学を極め、その思想を西浦屋の経営手法にも取り入れます。西浦屋を隠居し名を「東洲」と改めた吉兵衛は、明治初年から晩年まで参前舎舎主を務めながら、心学を説く書物を出版したり、故郷妻木に心学講舎を設立したりするなど、石門心学の普及に心血を注ぎました。渋沢栄一や松下幸之助も影響を受けたという「石門心学」とはどんな学問か、なぜ吉兵衛が傾倒したのか、本展では、これまでほとんど知られていなかった熊谷吉兵衛の生涯をたどりつつ、時代の転換期に生きた一人の商人の心の在り方についても探ります。
出品協力:多治見市教育委員会、多治見市図書館郷土資料室、鶴岡市郷土資料館
チラシ